献体と私
鹿児島大学白菊会 鹿児島市からフェリーで錦江湾を渡って約30分、そこに私の住んでいる垂水市がある。鹿児島県は鹿児島市に人口が集中し、他の鹿屋市、川内市、私の住んでいる垂水市等はあまり大きな市ではない、そこで私は僧侶の生活を送っている。昭和59年の春の事かと思うが、鹿児島大学医学部から解剖学の村田教授、事務当局の人達が突然拙宅に見えられて、白菊会鹿児島支部の会長就任を要請された。当時は鹿児島大学白菊会ではなく、白菊会の鹿児島支部という形であり、支部は昭和45年11月1日に発足した事になっている。その後支部の活動はあまり活発でなかったが、支部活動を活性化するために支部総会を持つ事になり、会長就任を要請されたものである。何故会長就任を要請されたか、大学当局にお聞きした事はないが、推測するところ私の職業にも関係があるらしい。ちなみに、私の妻も白菊会会員である。 私自身白菊会に入会したのは昭和47年8月22日の事であるが、最初白菊会に入会した頃は、鹿児島大学とは何の直接的な関係もなく、鹿児島県在住の一白菊会会員と云うに過ぎなかった。会長に就任してからは、鹿児島大学とも繋がりが出来、解剖学関係の教授達・大学当局の関係者とも親しくなり、会の幹事諸氏とも親しくなれた。会長としてはっとめて会のため積極的に活動するように心がけている。 大学当局に問い合わせてみると、昭和53年春、鹿児島大学医学部教授で肉眼解剖学の責任者の大森浅吉教授が退官された後は、解剖実習が終わると、次年度の解剖実習が出来るように教官はじめ、医学部職員が必死で御遺体の確保に努められたらしい。医学部教授の場合、その専門にかかわりなく、全新任教授が解剖学教室教官と一緒に県下の病院、福祉施設、福祉事務所その他を回り、御遺体の確保に努める様な状態がそれから数年は続いたようである。加えて、鹿児島大学歯学部も昭和52年に設置され、翌53年に発足した。55年からはこちらにも御遺体を提供する必要に迫られ、昭和50年代は御遺体の確保は鹿児島大学医学部・歯学部の場合大変であった。会員の献体率もあまり高くはなく、今日の状況とは隔世の感がある。 鹿児島大学白菊会となってからは、会の独立性も保たれ、方向もはっきりし、会の性格もきわめて明瞭になって来た。現在会員数は決して多くないが、医学部・歯学部の系統解剖実習では昭和50年代前半に経験したような厳しい状態はクリアーしたと考えている。 鹿児島大学医学部は1943年、県立の医学専門学校として発足し、幾多の変遷を経て、1955年国立大学医学部に昇格した。そのような歴史の中にあって1993年創立50周年を迎えたが、こと白菊会に関して云えば1970年代に創られた多くの新設医科大学のように、県や地方自治体の強力な支持を受けることなく歩んで来ている。会員数も少なく、財政基盤もまた貧弱である。しかし、他の会を羨望したり、模倣したりする事はしないつもりである。小さいが、確固とした組織が出来上がりつつあり、年度の目標はこのところ毎年達成している。加えて、副会長、理事、監事に適材の人を得て幹事のチームワークも極めてよい。副会長の下川幸夫氏はかつて私費で南日本新聞の一面を買い取り献体の啓蒙につとめて下さった事もある。これは星野一正先生が中心でまとめられた『日本の献体』にも収録されている。私達はこのまま、ゆっくりではあっても堅実な歩みを続け、南日本の医学歯学教育に少しでも貢献していきたいと考えている。 (会長 中谷茂一) 白菊会発足 昭和45年11月1日 白菊会鹿児島大学支部発足 昭和47年8月22日 中谷茂一様入会 昭和59年 第1回総会開催 平成元年6月22日 鹿児島大学白菊会発足
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